みなさんは、「旧東海道」にどんなイメージがありますか?
なんとなく、「江戸時代に使っていた道?」と頭に浮かんだ方もいるかもしれないですね。現代においても、「東海道」はありますが、「旧東海道」と一致するところもあれば、別々の道になっているところもあるといった感じです。
今回、歴史散歩家として、小学1年生の息子とともに旧東海道を実際に歩いてみたいと思います♪今回の記事では、概要だけご説明します。
なぜ旧東海道を歩いてみようと思ったか
私は休日に息子とよく散歩をしています。どこかの駅を目的地にして、15~18kmくらい歩くこともあります。多くの方にとっては苦行のように思えるかもしれませんが、私と息子は新しい場所に行くのをいつも楽しみにしています。
また、私は個人的に歴史散歩を趣味にしていて、ブログを書いています。旧東海道の周囲には、歴史に関係する建物などが多くあり、面白そうだなぁと感じました。子供は小学1年生なので、歴史を習うのはまだまだ先ですが、ちょっとでも興味を持ってくれたらいいなぁというのもあります。
そのような訳で、マジで歩く旧東海道散歩を始めてみることにしました。ただ、全部は難しいので、日本橋から箱根 限定にしました。
歩く目的
歴史散歩家としての経験値を上げていくことを目標にしています。
ただ歩いていくだけでも、横浜市戸塚区や藤沢市などでは歴史案内板があるので、勉強になることが多いです。また、長い距離を歩くことになりますが、それを乗り越えることで体力や自信がついてきます。
そして何よりも、息子とともに歴史散歩をして新しい景色に出会い、それを楽しむことができればと考えています。息子はまだ小学校低学年なので、歴史の勉強はしていないですが、興味を持ってくれることを期待しています。少なくても今は、歴史案内板などを見つけて喜んでいます♪
進め方
具体的には、宿から宿の間を歩いていきたいと思っています。もちろん現在は、「宿ってどこ?」という感じなので、宿を駅に置き換えて駅から駅まで歩くことにしました。
ちなみに、日本橋から順番に歩いていく訳ではなくて、やりやすそうなところから始めて、最終的に日本橋から箱根までつなげるイメージで考えています。
各宿の特徴
それでは、旧東海道散歩のスタート!と行きたいところですが、詳しくは一つずつの記事でご紹介していきます。ここでは、各宿の特徴を超簡単にご説明いたします。
江戸日本橋(スタート)
江戸時代に入り、徳川家康は江戸を中心とした五街道の整備に着手しました。そして、第二代将軍 秀忠の時代に五街道は完成。慶長6年(1601)、各街道に宿駅伝馬制度を敷き、慶長9年(1604)に江戸日本橋が里程の起点と定められました。つまりは、スタート地点となったということですね。
現代でも、東海道を歩いていると「日本橋から○km」という標識がよくあります。今で言うと、「日本橋からの距離ってどうでもよくない?」と思われがちですが、江戸時代からの伝統を受け継いでいるものと考えられます。
【宿駅伝馬制度とは?】
幕府公用の荷物や書状を速く運ぶための制度です。人が走る駅伝をイメージしてください。100kmを1人で走るよりも、区間を分けて10人でつないで走った方が圧倒的に速いですよね!?これと同様に、各宿に人や馬を集めておいて、それぞれが次の宿場まで届けるということを制度化したのです。
品川宿
江戸から出発して最初の宿場で、日本橋から2里(7.9km)の距離。
東海道の旅は、日の出の2時間くらい前に江戸を出発して、高輪の大木戸を過ぎるころには東の空も明るくなり、品川宿に到着するというのが一般的でした。
次の川崎宿までは2里18町(9.8km)で、途中には舟で渡る多摩川が流れていました。
川崎宿
六郷の渡しで舟を降りると、すぐに川崎宿がありました。
実は宿駅伝馬制度が定められた当時は、川崎は宿駅とされていませんでした。しかし、品川宿から神奈川宿まで5里(19.6km)と長いので、その中間に位置するところにある川崎宿が宿駅として追加されました。
神奈川宿
江戸から3番目の宿場で、日本橋から7里(27.5km)の位置にあります。
この宿場の規模はごく平均的なものでしたが、交通の要衝であったことから、人口は5,793人と多い方でした。
神奈川宿には、浦島太郎伝説も残るなど、見どころ満載です。
保土ヶ谷宿
江戸から4番目の宿場 保土ヶ谷宿は、日本橋から8里9町(32.4km)となります。
江戸から出発すると、旅人は海沿いの平坦な道を辿っていきますが、神奈川宿を過ぎると内陸部に入っていき、保土ヶ谷宿へと向かっていきます。そして、保土ヶ谷宿を過ぎると、江戸からきた者にとって最初の難所である「権太坂」と呼ばれる厳しい上り坂に出会います。そのため、足の弱い人や女性などは、保土ヶ谷宿に泊まる場合も多かったようです。
戸塚宿
保土ヶ谷宿を出て、境木から品濃坂を下れば戸塚宿に入ります。
戸塚宿は、江戸からの距離がちょうど10里ほどになり、当時の成人男性が1日に歩く距離にほぼ等しいため、江戸から出発した人たちの最初の宿泊地となることが多かったようです。
また、戸塚宿は品濃坂と大阪という2つの坂に挟まれており、東京方面と京都方面どちらに行くにしても、厳しい上り坂を越える必要がありました。
藤沢宿
藤沢は、鎌倉と京都を結ぶ街道沿いにあって、人や物が行き交うような場所でした。また、鎌倉時代末頃から時宗の総本山「遊行寺」の門前町としても発展してきました。
江戸時代中頃以降は、「大山道」や「江ノ島道」の分岐点として、「大山詣り」や「江ノ島詣で」の旅人の拠点となり、一生の賑わいを見せることになりました。
平塚宿
茅ヶ崎一里塚を過ぎ、船渡しの相模川(下流を馬入川という)を渡れば、高麗山が近づいてきて、平塚宿に到着します。
江戸から7番目の宿場で、日本橋からは16里(62.8km)の所にありました。藤沢宿からは3里18町(13.7km)ですが、次の大磯までは27町(2.9km)で、かなり大磯宿よりに位置しています。
なお、江戸時代後期の宿の規模は、東海道の中では小規模だったようです。
大磯宿
江戸から8番目の宿場で、日本橋からの距離は、16里27町(65.8km)でした。
南側の海と北側の山に挟まれた細長い町並みで、宿場としては寂れた様子だったようです。理由としては、江戸からの旅人は箱根越えに備えるため、逆方面からの旅人は酒匂川を渡る前に、それぞれ小田原宿に宿泊する人が多かったからです。
小田原宿
大磯を出て、人足の方や輦台に担がれて酒匂川を渡ると、江戸を登って最初の城下町 小田原に着きました。
小田原宿は、江戸から9番目の宿場で、日本橋からは20里27町(81.5km)の距離にありました。当時の成人男性は1日に10里ほど歩いたので、江戸を出発して戸塚宿で一泊し、小田原宿に二泊目というのが定番だったようです。このため、小田原宿は東海道五十三次の中でも大きい宿場として賑わっていました。
箱根宿
箱根宿が、小田原宿と三島宿の間に開設されたのは元和4年(1618)で、宿駅伝馬制度が制定されてから17年後になります。どうやら、幕府が小田原宿と三島宿からそれぞれ50軒の移住者を募って、必要な金銭や米を支給し、芦ノ湖畔を切り開いて新たに宿を設置したようです。
なお、箱根宿は江戸から10番目の宿場で、日本橋からの距離は24里35町(98.1km)でした。
まとめ ~読者のみなさんに伝えたいこと~
東海道を日本橋から箱根まで歩いてみるチャレンジをこれから進めていきます。小学1年生の息子と一緒なので、子供のモチベーションが続くのか不確実です…今のところはやる気ありますが。
今回の挑戦を通して、「歴史を学ぶことは楽しい♪」ということを伝えられたらいいなぁと思っています。本で読むだけではなくて体を動かしながら体験をすることで、身近に感じられるため、より一層学ぶことを楽しめるようになります。
もちろんこれは、歴史の分野だけではなくて、あらゆることに当てはまります。学んだことを実生活の中で感じてみる。そうすると、興味が湧いてくるんですよね~♪さらなる疑問が出てきたり、記憶に残りやすかったりもします。
また、「チャレンジしていくことで人は成長できる」ことを伝えたいです。今はまだ、体力的にも、歴史の知識も未熟ですが、学びと体験のサイクルを回しながら、親子共々成長していきたいと思っています。
成長というと、息子の体力が著しく伸びていて、私を越えつつあります。さらに、記憶力もいいので、歴史の知識もそのうち越されてしまうかも…息子の成長に喜びと焦りを感じながら、頑張っていきます。アラフォーでも成長し続けることが可能であることを証明していきたいです!!
【参考図書】
・『東海道の宿場を歩く』 NPO法人 東海道ウォークガイドの会 編集
神奈川新聞社 発行
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