みなさんは、「日蓮」という人物をご存じですか?
おそらく、「他宗を批判した攻撃的な僧侶」という印象を持っている方もいるのではないでしょうか?私は日本史をまじめに学んでこなかったので、それほど認識していませんでした。ただ、鎌倉を中心に歴史散歩をする中で、鎌倉仏教というのは避けて通れないと感じ、学んでいるところです。
確かに、日蓮はイメージどおり、他宗を厳しく批判しています。ただ、仲間に対する深い愛情もあったりと、別の顔を持っていたりもします。多くの方が日蓮宗を信仰し、現代においてもその教えが残っていることを考えると、非常に魅力のある人物だったのかもしれませんね。
それでは、日蓮の人生を振り返りながら、実像に迫っていきたいと思います。最後までお楽しみいただけたら幸いです♪
立教開宗まで
日蓮は、貞応元年(1222)に、安房国(現・千葉県鴨川市)に生まれる。要は、千葉県の先っぽあたりですね!
その後、12歳の時に近くの清澄寺に登り、16歳で道善房を師として出家しました。清澄寺は天台宗山門派の寺院ですが、山門派の僧は、出家後に比叡山延暦寺での受戒を経て、一人前の僧となることができました。当然、日蓮も比叡山に登り、天台宗の教学や密教を学び、受戒しました。
一人前の僧となった日蓮は、京畿での留学を終えて、建長5年(1253)、32歳の時に清澄寺へ戻ってきました。ここで彼は「立教開宗」宣言を行い、念仏批判を展開したとされています。また、官僧を辞め、遁世したと言われています。なお、官僧とは、天皇から得度を許され、戒壇において受戒を受けた仏僧のことです。公務員(またはサラリーマン)的な感じですかね。一方、その官僧の世界から離脱し、仏道修行に励む僧を遁世僧と言います。イメージ的には、公務員を辞めてベンチャー企業を立ち上げる的な感じですかね。
しばらくして、日蓮は清澄寺を離れ、鎌倉へ向かいました。清澄寺から離脱し、遁世僧としての活動を本格化させていくことになります。
鎌倉での活動
名越の草庵
鎌倉にきた日蓮は、名越に草庵を構えます。現在では、松葉ヶ谷の草庵と呼ばれており、鎌倉駅から東南の位置にある妙法寺にあたりとなります。日蓮は、鎌倉で辻説法などをしていたと考えられます。辻説法とは、道ばたで往来の人に対してする説法のことです。彼は遁世僧であったため、信者の布施で暮らさざるを得ず、布教活動が必須だったはずです。
立正安国論の提出
文応元年(1260)に日蓮は、『立正安国論』を時の鎌倉幕府最高権力者(先の執権)であった北条時頼に提出しました。結論から言うと、日蓮の想いは受け入れられず、鎌倉幕府に相手にされなかったことになります。まあ、まだ名前もそんなに知られていないような一僧侶が、最高権力者に物申すというのは、ちょっと無謀ですよね…行動力はすごいですが!
ちょっと脱線しますが、この話で、私が中学生時代に野球部だった時のことを思い出してしまいました。私は、外野手でレギュラー当落線上にあるレベルの選手でしたが、ピッチャーに憧れていました。ピッチャーは大体一番うまい人がやるポジションですよね。でも私はどうしてもやりたかったので、ある時鬼監督に「ピッチャーやりたいです!!」と宣言してしまいました…今思うと、身の程知らずで恥ずかしいです。20年以上経った今もたまに思い出して、顔が赤くなります(笑)
ただ、中学の時は願いが叶わなかったのですが、社会人になって草野球をしばらくやっていた時に、ピッチャーをやらしていただくことが結構ありました。結果的には、自分の想いに蓋をし続けないで、言葉にしたのは正しかったのかもしれないとも思えるようになりました。
すみません、日蓮の話に戻します。彼が提出した『立正安国論』とはどのような内容だったのでしょうか!?簡単に解説すると、次のとおりです。
当時は地震や疫病などの災害がよく起こっていましたが、それは国家が邪法(つまりは法然門下の念仏)を重んじているからである。それらを捨てて、正しい教えである(法華経や真言宗)に帰依すれば、国家は安穏になるという内容です。
どうして、日蓮は鎌倉幕府に『立正安国論』を提出したのでしょうか?みなさんは鎌倉の大仏を知っていますか?高徳院の大仏は有名ですよね!当時、その大仏を造っていた頃なんです。そして、それを主導しているのが念仏層の浄光で、幕府はそれに対して大いに協力をしていました。それが日蓮にとっては、鎌倉幕府が法然一門を優遇しているように感じられ、断じて許すことができないと思ったのでしょう。
度重なる試練
日蓮が『立正安国論』を幕府に提出したことは、世の中に大きな波紋を生みました。特に、その中で批判の対象となっている念仏信者からの反発が大きかったことは想像に難くありません。そういった状況の中、日蓮の住む名越の草庵が念仏者の襲撃を受けました。これは「松葉ヶ谷の法難」と呼ばれています。これを機に、日蓮は一時的に下総に避難したようです。
しばらくして、日蓮は鎌倉に戻りますが、悪口を言ったという理由で、念仏者から訴えられることになります。現代でも人の名誉を棄損したりすると、罪に問われますよね。日蓮はどうなったかというと、伊豆に配流されることになります。
この前、親鸞の記事を書いた時に説明しましたが、鎌倉時代には、念仏者側も弾圧されることが多かったと言われています。つまり、変な噂とか流されると、生活が脅かされることにもなりかねません。宗派の対立も、命がけだったんだと思います。宗教って結局は、人の想像で作り出しているので、それを信じるか信じないかの世界じゃないですか!?そういう意味で、イメージを害されると致命的なことになりかねないんでしょうね。現代で言うと、芸能人や政治家も大衆にどう思われるか、つまりはイメージ作りが大事だという点で同じようなものでしょうか。
少しまた脱線しましたが、伊豆から戻ってきた日蓮は、下総に隠棲していたようですが、更なる困難が待ち構えていました。文永元年(1264)、日蓮一行10人程が、東条郷の松原というところで、念仏者数百名に襲撃されるという事件が起こりました。これが「小松原の法難」です。日蓮は大けがをしたものの、命からがら逃げ伸びることができました。
佐渡への配流
日蓮の他宗批判はより過激化するとともに、対象も拡大していきました。最初の頃は、念仏者を批判対象とし、彼らに布施をしないよう求めていた程度でした。しかし、念仏だけではなく、禅・律・真言なども主な批判な対象とするようになっていきました。それを表しているのが、日蓮が『撰時抄』で述べている次の言葉です。
建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏殿・長楽寺等の、一切の念仏者・禅僧等の寺や塔を焼き払って、彼らの頸を由比ヶ浜で斬らなければ、日本国は必ず滅ぶだろう。
日蓮さん、それは言い過ぎです!笑
このように、他宗批判をしすぎた結果、日蓮を被告とする訴訟が起こされます。そして、日蓮は悪口の咎により佐渡配流が決まってしまいます。
日蓮の草庵に平頼綱を大将として、数百人の兵士が押し寄せ、日蓮を逮捕したと言われています。というのも、日蓮が草庵に武器を蓄えていたので、それだけ大掛かりな逮捕劇になったと考えられます。
佐渡への配流前に、日蓮は鎌倉の西の境界にある片瀬の竜ノ口刑場で、武士たちに首をはねられそうになったという事件が起こりました。しかし、首をはねられる直前に、突然江ノ島の方から「光り物」(光る玉のようなもの)が出現し、それに驚いた武士らは殺すのを諦めたという伝承があります。現在はその場所に日蓮宗龍口寺が建てられています。
さて、佐渡での暮らしはどうだったのでしょうか?
比較的温暖な安房出身の日蓮にとっては、北国である佐渡での暮らしはとても厳しいものであったようですが、現地には支えてくれる人もいたため、徐々に慣れていき、自身の思想を深めていきました。
日蓮は佐渡でどのようなことを考えていたのか、参考になる書として『開目抄』があります。これは、佐渡の塚原三昧堂で執筆されたものです。内容としては、前半部分で、儒教・外道・内道(仏教)の中で、内道が一番優れているが、とりわけ『法華経』が独勝としています。
では、『法華経』の行者であるのに、なぜ日蓮はもろもろの苦難に遭わなくてはならないのか?結局のところ、日蓮は「法華経の行者」であるけれども、常不軽菩薩のように、前世における謗法の罪によって、苦難を受けているのだと結論づけている。日蓮はその菩薩に自身を重ね合わせたのです。
さらに、日蓮は三大請願を書き残しています。
「私は日本国の柱となろう。私は日本国の眼目となろう。私は日本国の大船となろう。」
日蓮の強い意志が伝わってきますね!現代の日本の政治家にもこれくらい強い意欲と覚悟を持って、臨んでもらいたいものですね。そんなこと言っている私も、「お金が欲しい!楽して暮らしたい!仕事休みたい!」とかばかり考えているので、反省しなきゃですね…
ここまで、『開目抄』についてご説明しましたが、佐渡でそれを書き上げてから数か月後に書き上げた『観心本尊抄』も重要です。こちらは、三部構成になっていて、第一部で「一念三千説」が仏説の中心であることを論じています。
一念三千とはどういうことなんでしょう?まず、「一念」とは、私たち一人ひとり瞬間瞬間の生命のことです。「三千」とは、「諸法」すなわちすべてのものごと、あらゆる現象・はたらきをいいます。この一念に三千の諸法が備わっており、一念が三千の諸法に遍く広がることを意味しています。
その上で、日蓮独自の「題目論」が第二部で展開されています。
日蓮は『法華経』のタイトルである「妙法蓮華経」の五字に、釈迦が覚りのために行った修行と、悟りによって得た果徳は全て具わっていると主張した。つまりは、絶対的な信仰を表すための語である「南無」を頭につけて、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えるだけで誰でも救われるというのです。これって、背後にある理論的なところは全然違いますが、法然が唱えた称名念仏「南無阿弥陀仏」とほとんどやっていることは同じですよね。日蓮は法然のことを厳しく批判していましたが、強い対抗意識があったと言えます。
第三部において、日蓮は、『法華経』は末法の衆生を主な対象としているとする説を唱えています。浄土教系の僧たちは、末法であるこの世ではなく、別世界の極楽浄土に救いを求めました。一方、日蓮は、末法であるこの世の衆生を主な対象として、この世での救済を主張しました。
末延山での暮らし
日蓮は文永11年(1274)に罪を許され、一旦鎌倉に戻りました。しかし、その後も日蓮の主張は鎌倉幕府に聞き入れてもらえることはなかったため、現在の山梨県南巨摩郡見延町にある見延山に移り住むことにしました。そこに庵室を建てて生活をしました。日蓮が暮らした庵室があった地には、現在、日蓮宗総本山である久遠寺が建っています。
さて、日蓮は見延山でどのような活動をしていたのでしょうか?まず手がかりとなるのは、建治元年(1275)に執筆された『撰時抄』です。これも『立正安国論』や『観心本尊抄』とともに、日蓮の代表作とされています。
この中で、今こそ『法華経』のエッセンスである「妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」の五字・七字を広告流布すべきと述べています。
また、朝廷や幕府らが日蓮に蒙古退散の祈祷を依頼せず、真言僧らに祈祷させた現状を批判しています。その上で、日本が蒙古に滅ぼされることを予言し、そうならなければ真言が勝れていることを認めるとまで主張しています。みなさんもご存じかと思いますが、日蓮の予言は当たりませんでした。日本は元軍を退けることができたのです。
次に、『報恩抄』をみていきましょう。建治2年(1276)、日蓮の旧師である道善房が死去しました。これを受けて書いたものです。その中で、仏教の教えが広まった歴史を振り返りつつ、諸宗批判を繰り広げています。特に、延暦寺の第三代座主となった円仁が最も排撃の対象となっています。
さらに、日蓮は最晩年である60歳の時に、『三大秘法抄』を著しました。この中で、日蓮が説いた末法の人々を救う教えのエッセンスで、三大秘法とは、本門の本尊、戒壇、題目の3つであるとしています。本尊については、絶対的存在である釈迦としています。題目については、末法の題目は自行利他の「自行題目」としています。本門の戒壇とは、受戒の場のことを言っていると考えられます。日蓮は、朝廷のみならず、幕府も関与する国家的な戒壇を構想していました。
日蓮は徐々に重い病に苦しめられるようになります。温泉で治療するため、見延山を出て、常陸の湯に向かいましたが、体調を回復させることはできませんでした。そして、日蓮が61歳の時に、波乱万丈の生涯を閉じることとなります。
日蓮の想いは弟子たちに引き継がれ、布教活動が行われることになるのです。
まとめ
以上、日蓮の人生を振り返ってみましたが、いかがでしたでしょうか?
私は、度重なる迫害や弾圧などに屈することなく、自分が何をすべきか考え抜き、やり続きてきた日蓮というのは、ものすごい精神力を持った人なんだと感じました。きっと私だったら、逮捕されるのも恐いし、家を襲撃されでもしたら気持ちが完全に萎えてしまうことでしょう…
今回紹介した日蓮の言葉に、次のようなものがありました。
建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏殿・長楽寺等の、一切の念仏者・禅僧等の寺や塔を焼き払って、彼らの頸を由比ヶ浜で斬らなければ、日本国は必ず滅ぶだろう。
なかなか過激な発言ですね。一方で、日蓮宗信者の家族に対して、きめ細かな感謝の手紙を送っていたり、佐渡に配流中も現地の人が日蓮宗信者になり生活をサポートしてくれるようになったりと、日蓮の別の顔が見える部分もあります。
私は中学校の時、野球部だったという話をしましたが、その時の監督は鬼のような方でした。独裁者的な感じですね!しかし、部活以外の授業とかでは意外と優しい!笑 明るく、接しやすい先生みたいな感じになっているんです。
このように人間というのは、いくつかの顔を持っていることが多くあります。自分が人生を賭けてやり遂げたいことなどには厳しく臨み、それ以外のことには穏やかだったりします。日蓮も日本をより良い国にすることや、仏教を極めていくことに対しては並々ならぬ想いで臨んでいた。だから、他宗には厳しかったけど、人間性が悪いという訳ではないのかもしれないですね。でも、個人的には、もっと他宗にも寛容的だったら、軋轢が少なかったんじゃないかなぁと思います。
みなさんはどう思いますかね?明確な答えはないですが、是非考えてみてください♪ではでは
【参考図書】
松尾剛次著 『日蓮 「闘う仏教者」の実像』 中公新書
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