日蓮聖人ゆかりの地を巡る鎌倉散歩

歴史散歩

 日蓮とは、鎌倉新仏教の宗派の一つ、「日蓮宗」をひらいた人です。彼は他宗に厳しく、「闘う僧侶」のイメージがあります。自らの教えに対する絶対的な自信と正義感があったのでしょう。そして、日本国をより良いものにし、多くの民衆を救いたいという強い思いも抱いていたはずです。

 そんな日蓮にゆかりのある場所が鎌倉駅から東南方面に多くあります。今回は、鎌倉における日蓮特集とさせていただきます!それでは、散歩のスタートです♪

辻説法跡

 まずは、鎌倉駅東口を出て、東の方に向かうと「辻説法跡」を発見!!
 鎌倉時代、この辺りは武士の屋敷と商家町が混在した地域と考えられ、毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと伝えられています。

 道行く人たちに自らの教えを説き、信者を増やしていったと思われます。内向的な私にはとても辻説法などできない…日蓮の熱意や行動力が伝わってきます。

本覚寺

 本覚寺のある場所は幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂えびすどうを建てたところといわれています。
 この夷堂を、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、布教を再開した際に住まいにしたと伝えられています。

 ではここで第問目のクイズです!!
 佐渡配流から戻ってきた日蓮ですが、なぜそもそも佐渡へ配流となったのでしょうか?

①他宗批判をしすぎた結果、他宗側からすると悪口とされたから
②念仏者と喧嘩したとき、思い切り殴ってしまったから
➂幕府から雨を降らせるための祈祷を依頼されたが、全く降らなかったから

しあわせ地蔵。地元の人に愛されているようです。

 みなさん、正解は分かりましたか?
 答えは、①の悪口を言ったとされたからです。特に、次のような言葉を残したとされています。

 建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏殿・長楽寺等の、一切の念仏者・禅僧等の寺や塔を焼き払って、彼らの頸を由比ヶ浜で斬らなければ、日本国は必ず滅ぶだろう。

 日蓮さん、これは言い過ぎです(笑)⁉

 ちなみに話がちょっと変わりますが、下の写真を見ると、「南無妙法蓮華経」と書いてあります。これこそ日蓮が唱えなさいと主張した題目ですね!
 そして、「東見延」とも書いてあります。これは本覚寺の2代目住職の日朝が、身延山から日蓮の骨を分けたので、そのように呼ばれているようです。

妙本寺

 こちらには元々、源頼朝の重臣・比企能員ひきよしかずらの屋敷がありました。比企一族は二代将軍・頼家の後継者争いの際、北条氏を中心とした軍勢にこの地で滅ぼされました(比企の乱)。
 その後、乱から逃れていた末子能本よしもとが、日蓮聖人に帰依し、一族の屋敷跡であるこの地に法華堂を建てました。これが妙本寺の始まりといわれています。

 妙本寺までの道は自然が豊かで心が落ち着く感じがします。境内に入ると、本堂の大きさが目を引きます。

 そして、日蓮上人像があります。正直、想像とはちょっと違いました!!もっとごつい感じなのかなと勝手に想像していました。まあ、どこまで実物に似ているのかは分かりませんが…

 「私もあなたのように信念のある人間になります」と誓い、その場を後にしました。

私の中の妙本寺ベストショット♪

常栄寺

 別名「ぼたもち寺」。幕府に捕らわれた日蓮が鎌倉の町を引き回され、龍ノ口の刑場へ送られる途中、ここに住む老婆がぼたもちを差し上げたことが、由来となっております。

 さて、ここで第2問目のクイズ!
 日蓮は、龍ノ口の刑場で武士たちに処刑されそうになりますが、ギリギリのところで助かりました。それはどうしてだと言われているでしょうか?

①武士たちは人を殺したことがなく、処刑するのが急に怖くなってしまったから。
②武士たちが、日蓮の最後の言葉に心を打たれたから。
➂江ノ島の方から光る玉のようなものが出現して驚いたから。

 それでは、答えを発表します。正解は、➂なんです。奇跡は起こるものなんですね!!

 ちなみに、このように日蓮は処刑を奇跡によってまぬがれますが、この法難のあった9月12日には老婆がつくったものと同じ胡麻をまぶしたぼたもちがふるまわれているようです。どんな味なんだろう⁉食べてみたいですね♪

 境内はこじんまりとした感じのお寺です。日蓮にぼたもちをあげた老婆は優しい方だったのかなとか想像しながら境内を見渡しました。そうすると、上の写真のようにステキな草花があって、心が安らぎました♪

妙法寺

 妙法寺のある場所は、布教のため安房(千葉県南部)から鎌倉に入った日蓮が、最初に草庵を結んだと伝えられています(松葉ヶ谷の草庵まつばがやつのそうあん)。
 日蓮に反感を持った人々によって、草庵が焼き討ちにされた「松葉ヶ谷の法難」もこのあたりであったと言われています。

 のちに護良親王の皇子である楞厳丸りょうごんまる(日叡にちえい)が、悲壮な最期を遂げた父母の供養と日蓮の遺跡を守るためにこの寺を建てました。

妙法寺の総門

 境内には、様々な魅力がありました!それでは、1つずつ見ていきましょう♪

 まずは、仁王門!!仁王像が2体います。近づいてみるとなかなかの迫力がありました。怒りを買わないようにそろそろと横を通り過ぎていきます。

 ちなみに、仁王門裏の苔石段は入れませんが、下から覗いてみると、ステキな感じになっています。苔の生え方が風流じゃないですか!?妻は私のことをコケにしてくるので、苔に対して何かシンパシーみたいなものを感じるのかもしれないですね♪

私の中では妙法寺でのベストショット♪

 結構階段を上って行くと釈迦堂跡もあります。何か神々しさを感じませんか?指の組み方が独特な気がしますが、何らかの意味があるのかもしれないですね。

 そして、日蓮を少し学んだ者として一番注目しているのは、「松葉谷御小庵跡」です。日蓮が20年近くも住んでいた草庵跡とされている場所です。結構山を登ってきたところにあります。昔もこんなに静かな場所だったのかな~などと想像を膨らませながら、しばらく眺めていました。こういう静かな環境は、自らの思想を深めていくのに適しているのではないかなと思います。

 最後に、境内全体で言えることは、きれいな花がたくさんあることです。3月下旬頃だったのですが、見ごたえがありました。春の訪れを感じます♪
 日蓮を巡る旅でしたが、やっぱり花もいいですね♪

安国論寺

 妙法寺と説明が矛盾するところがありますが、日蓮の松葉ヶ谷草庵の跡とされています。草庵の元となった岩窟が本堂の向かいにあります。まあ、妙法寺も安国論寺もかなり近くにあるので、お互いに日蓮が住んでいたと出張しているんですね…

 この御法窟と呼ばれる場所で、日本国の安泰と人々の幸せを願って文応元年(1260)、前執権 北条時頼に建白した『立正安国論』が執筆されました。
 翌年には、立正安国論に反感を持つ人々に庵が襲われました(松葉ヶ谷の法難まつばがやつのほうなん)。このときに、本堂の裏山に一時避難した「南面窟なんめんくつ」があります。

 さて、境内を散策した感想をお伝えしていきます。
 まず、受付の女性がとても親切でした。境内のまわり方を丁寧に説明してくださいました。ただ、「日蓮上人にも興味があるなら説明しますよ」と言われ、興味はありましたが、ちょっと話が長くなりそうだなと思ったので、断っちゃいました…少し急いでいたのでごめんなさい…

 そして、入口付近でいきなり何か気になるものを発見!!

 ここで第3問目のクイズです!!
 安国論寺には、ある有名な歌人の歌碑があります。それは、誰でしょう?

①松尾芭蕉
②与謝野晶子
➂正岡子規

 みなさん分かりましたか?正解は、③の正岡子規です!

 正岡子規は、日蓮の強烈な精神性に共鳴し、なんと『日蓮』と題した随筆も残しています。正岡子規と日蓮のつながりは全く知らなかったので、びっくりです!

 そして、手水舎を過ぎて右に曲がるとちょっとした山に繋がっています。若干疲れますが、なかなかいい景色が見えます。天気がいいと富士山も見えるらしく「富士見台」と呼ばれています。

  他にも山の上に鐘があったり、木が倒れていたりするなど見どころいっぱいです!!少し探検している気分を味わうことができました。

なんか苔が抹茶のお菓子みたいですね(笑)

 最後に、本堂前の階段に花がきれいに並べてありました。これは偶然!ではないですよね

まとめ

 今回の散歩では、日蓮が鎌倉で辻説法をしていたこと、立正安国論を執筆したこと、そして草庵が襲撃されたことなどを知ることができましたね!!

 ただ、日蓮はずっと鎌倉にいた訳ではなく、安房の出身であり、晩年は現在の山梨県にある三延山で暮らしました。そういったゆかりの地も実際に行ってみたいなぁと私は強く感じましたが、みなさんはいかがでしょうか?
 また、正岡子規や宮沢賢治などの文人にも、大きな影響を与えているようなので、彼らの作品も気になります!!
 さらには、日蓮ゆかりのお寺は、自然豊かで草花がきれいな所も多いです。植物好きの方にも見どころは多いです♪

 こんな感じで、今回の散歩も大きな収穫がありました。気になる方は是非行ってみてください!!ではでは

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