みなさん、仏教ってどんなイメージですか?
「禅」ですかね?それとも「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることでしょうか?はたまた「仏像」をイメージする方もいるかもしれないですね。正直、私も仏教について全然分かっていませんでした。しかし、歴史散歩でお寺に行くことも多くなってきたので、無知のままではダメだと思って、勉強してみることにしました。
図書館で、平岡聡さんが書かれた「鎌倉仏教」という本を借り、主に通勤電車の中で読み進めました。なぜ鎌倉仏教かというと、私はよく鎌倉を散歩していますが、鎌倉時代を起源とするお寺が多いので、多くのヒントを得られるのではないかと考えたからです。でも、電車で「鎌倉仏教」というタイトルの本を読んでいる人みたことありますか?ちょっと怪しい感じだと思う方も多いのではないでしょうか。もし見かけた人がいたら、それは私かもしれないです!決して怪しい者ではありませんよ~
鎌倉仏教を学んでみると、宗派の違いなどが見えてきます。散歩していてお寺の前を通ると、「何宗なんだろ?」と気になり、必ず確認するようになりました。違いが分かってくると、楽しくなってきます。また、「この辺には○○宗のお寺が多いなぁ」とか気づいたりして、なぜなのか調べることで歴史の実践的知識が深まります。
それでは、歴史散歩をより楽しみ、有意義にするために、一緒に「鎌倉仏教」を学んでいきましょう!!
鎌倉仏教の概要
平安時代末から鎌倉時代にかけて興った新しい仏教のことを言います。主な宗派・宗祖は次のとおりです。
①臨済宗 栄西
②曹洞宗 道元
➂浄土宗 法然
④浄土真宗 親鸞
⑤時宗 一遍
⑥日蓮宗 日蓮
このように、主な担い手として、6名・6宗が挙げられます。なお、①と②は禅宗系(座禅を行い、自ら覚りをひらく。「自力」の教え)、➂~⑤は浄土宗系(阿弥陀仏に救いを求める。「他力」の教え)としてそれぞれつながりがあります。
「鎌倉仏教」著者の平岡さんの言葉をお借りすると、鎌倉仏教の特徴として「専修」が挙げられます。「専修」とは、「一行のみを選択し、専らそれを修すること」です。もうちょっと簡単に言うと、極楽往生に導かれるための行いとして、座禅、念仏、信心、唱題などがありますが、そのどれか一つを徹底的に行うのです。ここで、「信心や唱題ってなんだ?」と感じている方も多いと思われます・・・仏教っていちいち言葉が難しいんですよね!それぞれ後ほど解説していくので大丈夫ですよ♪
また、一遍を除いて、上記の祖師たちは、当時の仏教の総合大学と言える比叡山で仏教を学びました。彼らはそこで仏教の全体を学んだ上で、そのエッセンスを座禅や念仏などの「一行」に集約したのです。つまりは、「一行が全仏教を含み込む」と整理したこと、それが鎌倉仏教を理解する上で重要なポイントとなります。
鎌倉以前の仏教について
「鎌倉仏教の特徴は分かったけど、鎌倉時代より前はどうなっていたの?」と思う方も多いのではないでしょうか?確かに、「鎌倉新仏教」と言われるように、鎌倉時代以前から日本に仏教が存在していました。
歴史を遡って、6世紀中頃に、日本に仏教が伝わったと考えられています。その際に、日本が国として仏教を受け入れるかどうかについては、崇仏派の「蘇我氏」と廃仏派の「物部氏」の対立がありました。結果的に、「蘇我氏」の勝利により、日本が仏教を受け入れていくことになります。
奈良時代には、中央に大寺、地方に国分寺という全国的な寺院網が敷かれました。蛇足ですが、東京都に国分寺市ってありますよね!?気になったので、ネットでサクッと調べてみたら、やはり市名はこの時期に建立された国分寺に由来するようです。
また、「南都六宗」が組織されます。ちなみに、「南都」とは奈良のことを言います。平安京のあった京都の南に位置することからそう呼ばれていたんですね。
平安時代には、最澄が天台宗、空海が真言宗を新たに開きます。
天台宗は、法華経を主な経典として扱い、円(天台教学)・密(密教)・禅・戒の全てを重視します。寺院としては、比叡山延暦寺が有名です。先ほど軽く触れたように、鎌倉仏教の宗祖たちは、仏教の総合大学と言える比叡山で仏教を学びました。
真言宗は、真言密教の教えを教義とする教団です。「真言」とは、仏の真実の「ことば」を意味しており、これには隠された深い意味があるとされています。この隠された意味こそが真実の意味であり、それを知ることができる教えが「密教」なのです。なお、寺院としては、高野山金剛峰寺や京都の東寺が有名です。
これらの南都六宗、天台宗、真言宗の八宗が体制側の仏教として確立されることになります。これらの仏教は、国家権力と結びつくことも多く、財力や権力にまみれるなど堕落していきました。その中で、鎌倉新仏教が登場する訳です。
鎌倉仏教 各宗派の解説
先ほどご紹介したように、鎌倉仏教を代表する宗祖6名のご紹介をしていきます。
栄西(1141~1215)
栄西は日本臨済宗の開祖。28歳と47歳の時に宋へ渡って仏教を学びました。特に、2回目の時には、天台山にある万年寺の虚庵懐敞を師として教えを受け、覚りを得たことを認められ、臨済宗黄龍派の禅を受け継ぎました。
関東では北条政子が創建した寿福寺、京都では源頼家が創建した建仁寺の開山を命じられます。その他、東大寺の復興に尽力するなどしました。
なお、臨済宗は禅宗系の宗派となります。
「禅宗ってどんな宗派なの?」というつっこみがありそうなので、ちょっとご説明します。
禅宗は大乗仏教の宗派の一つで、日本においては臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の総称です。教えを一言でまとめると、「座禅を中心とした修行により、心の本性が明らかにされて、悟りが得られる」ということです。禅宗を中国から日本に伝えたのは、栄西や道元です。ついでにですが、中国に伝わったのは、6世紀初めにインドの達磨大師によるものとされています。
臨済宗は禅宗の流れを受けた宗派だということは分かりましたが、具体的に栄西の教えはどのようなものだったのでしょうか?
一言でまとめると、「戒」・「定」・「慧」の三学観となります。そう言われてもよく分からないですよね!?
まず、「戒」とは「戒律」のことを言い、それを分解して「戒」とは自発的に守る「道徳」、「律」とは誰かが定める「規則」です。覚りへの第一歩は、「戒律」を順守して心身を整えることとなります。
次に、「定」とは、「禅定」のことで、心を一転に集中し、雑念を退け、絶対の境地に達するための瞑想を行うことです。座禅が最も一般的となります。
「戒」によって心身を整え、その上で「定」を徹底することで、最終的に「慧」を獲得する。つまりは、物事を良く見極め、道理を正しく把握できる精神状態となることを目標とします。
決まりを守って、瞑想などの修行に励む、まさにお坊さんがやっていることのイメージなのではないでしょうか。
道元(1200~1253)
日本曹洞宗の開祖。京都の上級貴族の家に生まれる。栄西の弟子である明全の弟子となり、臨済宗の教えを受けました。その際に、本場中国で禅を学ぶため、明全とともに入宋しました。そこで、道元の師匠となる天童如浄という人物と出会います。彼のもとで道元は座禅の修行をして、覚りをひらいたとされています。28歳の時に帰国し、禅の普及に専心しします。
道元の教えの特徴はどのようなものであるか説明していきます。先ほど、栄西は仏教において伝統的な三学観を重視していると解説しました。しかしながら、道元はそれを覆します。彼は「只管打座」を主張したのです。要するに、雑念を一切捨て去ってただひたすらに座禅を組み、修行をしなさいということです。栄西が重視している三学観の「定」のみを選択することになります。道元は修行と覚りが一体であるとし、「定」=「慧」と考えました。そのため、座禅をひたすら行うことが覚りに繋がるということになります。
ちょっと脱線しますが、私は脳科学がとても好きです!!「いきなり何の告白か?」と思われる方も多いかもしれないですが、一応座禅とつながっているのでご安心ください。
人間の脳力を決めているのは脳だと考えています。能力に自信がない私は脳科学の本を50冊以上読んで勉強し続けました!!その中でほぼ共通して述べられていることがあります。それは、科学的に「瞑想」が効果的であるということです。逆に、瞑想の効果を否定する脳科学の本を見たことがないです。瞑想を習慣化することで、リラックスすることができますし、ストレスを感じにくくなったり、集中力が向上したりします。それは、一時的な効果ではなく、脳の構造そのものを変えるようです。
そして、道元の考えを学ぶ中で、次のような記載を発見しました。
「文字一つも知らず、学問のない、愚鈍な人でも、座禅を専一にすると、長年の間、学問をした聡明な人にも勝ってしでかすものだ」
この言葉に根拠はあるのか?気になりますよねぇ。そう言っているくらいだから、実例があるのかもしれないですね。もし、そういうことが起こりうるのであれば、早速座禅を習慣化すべきではないでしょうか!?私のような冴えない中年会社員が一発逆転するとしたらこれしかなくないすか?脳科学を今まで学んできた私にとっては、あながち大げさなことを言っていないと思います。妻からは、「瞑想なんかしている人は怪しい」と言ってばかにされますが、ぎゃふんと言わせたいですね!!
そういう場合は、実験してみるしかないですよね!「人生は壮大な実験だ!」と常日頃から言っている私なので、早速2024年1月1日から、まずは1年間、毎日30分の瞑想をしてみることにしました。愚鈍な私も、聡明になっている様子をイメージしながら頑張っています♪ちょくちょくブログに載せていきたいと思いますので、応援よろしくお願いいたします。
法然(1133~1212)
浄土宗の開祖。美作国久米南条(岡山県)に生まれる。
いきなりですが、法然が9歳の時、父が夜襲に遭い、殺されてしまいます。父が死ぬ間際に法然に対して残した言葉が印象的です。
「決して敵を恨むな。これも前世の報だ。お前が敵を恨めばその怨みは代々に渡っても尽きがたい。はやく出家して私の菩提を弔い、お前自身も解脱せよ」
子供に敵討をさせないというのは素晴らしい判断だと思います。もし敵討が成功しても、次はその相手の子孫に恨まれ、逆襲される可能性が高いですよね。その連鎖を断ち切るというのは、難しい決断にはなりますが、極めて重要です。現代においても、多くの戦争から小さな喧嘩まで多くの場面で活かせるのではないでしょうか。
それでは、法然の人生に話を戻します。法然は叔父に引き取られますが、その後、彼の勧めで比叡山に登り、延暦寺で研鑽を積むことになります。そして、43歳の時には、善導の「観経疏」の一節に出会い、回心します。善導とは、中国の唐時代に活躍した中国浄土教の僧で、仏の名を声に出して唱えるという「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立しました。
それからは、比叡山を降りて吉水に移り住み、法然を訪ねてくる者に念仏を勧めたり、自ら念仏の行に励みます。
念仏を唱えることのみによって往生できるという教えは、当時の日本では新しい考え方だったので、既存の仏教から反発を受け、浄土宗は様々な法難を受けることになります。特に有名なものは、後鳥羽上皇の女官が無許可で出家してしまったことに法然の門弟が関わっていたという事件です。上皇は激怒し、その門弟を死罪にし、法然も流刑となってしまいました(建永の法難)。
さて、法然の教えを整理します。一言でまとめると、「選択本願念仏」です。 つまりは、念仏を唱えることによってのみ往生できるという教えです。「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えればいいんです。素人的には、それだけで往生できるなんて簡単すぎないか?と思ってしまいます・・・ただ、法然が生きていた当時は、民衆の教育水準が高くなかったので、難しいことを教えても分かってもらえないんですよね。「誰でも往生できるようにしてあげたい」という法然の親心が、念仏という「行」に込められているのかもしれないですね。
また、法然は念仏のアイデンティティを変えたと言われています。法然以前、念仏は仏教入門者向けの初歩的な劣行とされていましたが、それを根底から覆しました。法然によって、念仏は唯一の往生行、あるいは全仏教を統合する行まで高められました。もちろん、既存の仏教からの反発も大きかったために、理論づけし、多くの人に伝えるのは困難を極めました。それを成し遂げた法然は非凡な人物だったんだと感じます。
ちなみに、私も法然のごとく信念を持ち、歴史散歩を通して「学ぶことの楽しさ」を伝えていきたいと考えています。
って、いきなり自分の話を出してすみません!私の熱い想いについては、ご放念いただいて結構です!
親鸞(1173~1262)
浄土真宗の開祖。公家の日野有範の家に生まれる。延暦寺で20年間修業した後、法然に師事しました。法然と同じく「建永の法難」で、親鸞は越後に配流となります。釈免後、関東で20年ほど布教活動をして、帰京しました。1262年に90歳で亡くなります。
法然の弟子であった親鸞は、「法然に騙されて地獄に落ちても悔いはない」と言っていたようですが、法然の浄土教をそのまま継承した訳ではありませんでした。
では、法然と親鸞の違いは何でしょうか?専門家の観点からは、「環相回向・信・凡夫の主体性」などがありますが、難しい話になってしまうので、「信」に絞って解説します。
まず、法然と親鸞が影響を受けた善導は、「三心+念仏」を往生の要件としました。「三心」とは、「至誠心(真実の心)」、「深心(深く信じる心)」、「回向発願心(往生を願う心)」です。
一方、法然は、念仏(行)を唱えることによって、三心(信)は備わるものとし、念仏(行)を重視しました。
親鸞は逆に、念仏(行)よりも「信」を重視しています。親鸞の教えでは、「真実の信心は必ず称名(念仏)を伴うが、称名(念仏)は必ずしも信心を伴わない」としています。つまりは、念仏を唱えるという行動を重視した法然に対し、念仏を唱える人の心を重視したのが親鸞なんですね。心がきれいで、信仰心があるなら必ず念仏をするだろうということです。
なお、「信心」を「行」とみなすかどうかについては、議論の余地がある部分です。その点、仏教では「意業」も行為とみなされます。また、親鸞の信心は必ず称名(念仏)を伴うことから、「行」に含まれると考えることができます。
一遍(1239~1289)
時宗の開祖。伊予の武将である河野氏の出身。
肥前の清水寺の僧である華台に師事し、12年間浄土教の研鑽に励む。その後、紆余曲折を経て、大阪の四天王寺を訪れ、名前を「一遍」と改名するとともに、人々を救うための札(念仏札=賦算)を配り始めます。
札を配っていた一遍ですが、熊野本宮に参籠した際に、次のような神勅を受けたと言われています。「あなたが勧めるから往生できるのではない。阿弥陀仏の力で往生できるのであるから、念仏の信不信、また人の浄不浄を選ばず札を配るように」
このように、信じているか否かに関わらず札を配るというのが、一遍を理解する上で重要なポイントとなります。
また、一遍は「踊り念仏」を始め、遊行を16年ほど続けた後、51歳で亡くなりました。
一遍の教えは浄土宗系なので、基本的には法然や親鸞の流れを受けたものとなります。では、彼らとはどのように違うのかを中心に見ていきましょう。
仏教は人間の業を身業・口業・意業の三種類に分類します。身業は身体的な行為、口業は話すという行為、意業は心で考えるという行為を意味します。そのうち「称名念仏」を進める法然は口業重視、「信心」が大事だと考えた親鸞は意業重視、「踊り念仏」を実践した一遍は身業重視ということになります。
では、なぜ「踊り念仏」が必要とされたのでしょうか?一遍はあらゆる人を救うことを目的としていました。当時は識字も学問もない人たちが数多くいます。その人たちに一遍の浄土教について言葉で説明しても分かるはずがないんです。大学まで行って十分に勉強をしたはずの私にも、深く理解することは困難です(ちゃんと勉強していなかったからかな・・・)。そのため、念仏の喜びを体で感じて理解する方法として、「踊り念仏」を選択したのではないかと考えられます。
日蓮(1222~1282)
安房国の漁師の子として生まれる。12歳の時に故郷の清澄寺に入り、その後は、鎌倉や京畿を中心に研鑽を重ねる。さらに、比叡山での天台教学に加え、真言密教や儒教も修得する。
日蓮は、この世を変革して浄土にすべきという思想を持っていたため、執権 北条時頼に『立正安国論』を上程するが、相手にされませんでした。逆に、数々の法難に遭うことにより、体制志向者から反体制派に態度を変えていきます。苦労を重ねたこともあってか、次第に病に悩まされるようになり、1282年に亡くなる。
それでは、日蓮の教えとはどのようなものだったのでしょうか?
日蓮は天台宗の根本的な教えである法華経に釈迦の最も優れた教えがあると考えました。簡単に言うと、「南無妙法蓮華経」という法華経の「題目」、つまりはタイトルを唱えることで往生できるという教えです。
素人からすると、「法然の念仏とやっていることがなんら変わらなくない?」と思えなくもないのです。もちろん、日蓮は法然の影響を受けていると言えるでしょう。しかし、日蓮は浄土宗の専修念仏は邪法であるため、禁止すべきだと主張しています。様々な災害など、悪いことが起こるのは、日蓮の言う邪法に基づいて政治が行われているからだと考えたようです。
まとめ
以上が、鎌倉仏教のまとめとなります。代表的な宗祖として6名の解説をしましたが、それぞれの教えは難解で、仏教初心者の我々が十分に理解するのは難しいです。ただ、歴史散歩をする上では、今回ご説明した内容が分かっていれば、より楽しめるようになります♪
ここで学んだ知識を使って歴史散歩をしてみる。そうすると、また新たな疑問も出てくるので、さらに学んでいくというサイクルを回していければ、より知識を深めていくことができますね♪
なお、今回の参考図書は下記の通りとなりますので、より深く学びたい方にはお勧めです。
【参考図書】
・「鎌倉仏教」 平岡聡 著
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