知ると10倍歴史散歩が楽しくなる 仏師・運慶

 みなさんは、運慶の仏像を見たことがありますか?

 私はよく鎌倉を散策しているのですが、圓應寺の閻魔大王や英勝寺の阿弥陀三尊像が運慶作とされていることを知り、どんな仏師なんだろうかと気になりました。他の仏像の場合は、誰が造ったのかなんて書いていないことが多いので、やはり運慶は特別な存在なのではないかと思います。

 運慶という人物について、その作風や時代背景などにも触れながら多角的に説明していきたいと思います。今回の記事で、運慶をはじめとした仏師の世界、そして、仏像について興味を持っていただけると思います♪

運慶作の特徴は?

 顔立ち、表情にはまさにそこに生きているような迫真性、存在感が溢れていると感じられます。しかし、運慶の作品は必ずしも現実に忠実な訳ではありません。彼の作品の肉体表現について、実在の人間ではめったにあり得ないような筋肉の盛り上がり、体の厚みがあることが多いです。つまりは、運慶作品の特徴として、デフォルメされているという点があります。

 ただし、デフォルメされていても、それをそうと気づかせない。まるで現実そのままであるかのように感じられる。デフォルメが目立ってしまっては意味がなく、誇張や改変とは気づかせないギリギリのところで造形がなされている。こうした現実らしさを本当の意味での迫真性・現実らしさと呼ぶならば、それこそが運慶の真価だと言えます。

 また、鎌倉彫刻において、常に運慶と並び称される快慶との表現の違いについて、簡単にご説明します。端正に整った面部に、やや冷たい表情を浮かべる理知的な顔立ちが快慶作品の特徴です。量感の強調はほどほどに控え、着衣の衣文は配置やにぎやかさなどがよく整理され、総じてバランスを重視し、計算された造形表現です。運慶作品とは随分特徴が異なりますねぇ!!

造像についての運慶までの歴史的流れ

 それでは、仏教が日本に伝来し、仏像造りが始まってから運慶が現れるまでの流れを簡単にみていきましょう。

飛鳥時代~平安時代前期

 仏師(仏像を制作する技術者)が日本に登場したのは、6世紀後半頃と考えられていて、止利とりという人物が現時点において最初の仏師と推定されています。彼は、馬具制作の技術者集団の出身と考えられています。

 中央集権的な国家建設が進みつつあった7世紀後半では、国家の力によって仏教が広められていきました。いわゆる、仏の力によって国を鎮め護る「鎮護国家」の思想が体現されたのです。そのため、国によってその拠点となる寺院が建設され、それらの寺は「官寺」と呼ばれました。官寺の道営は、官営工房が担い、当然仏像も官営工房により制作されました。

 平安時代前期においても、官営工房による仏像の製作は続いていましたが、それ以外の場所でも造仏が行われるようになっていきました。また、僧籍を有する仏師が登場するのもこの頃であり、以後永く日本における仏師の基本的な形として受け継がれていくことになります。

 10世紀中頃になると、新たなタイプの仏師が現れました。特定の寺院や教団に所属せず、官営組織にも属さない、独立した工房を営む仏師です。そうした仏師の中で、記録上最初の人物は康尚こうしょうです。彼は、藤原道長や道長の関係者などと関係を持ち、造像を請け負っていました。

定朝の登場

 康尚の後継者と考えられるが、定朝じょうちょうという人物です。彼は、藤原道長やその子 頼通 関係といったように当時の最高権力者たちの造像に携わっていました。それも、彼が造った仏の出来栄えが素晴らしく、依頼者の理想を叶えていたからだと考えられます。定朝仏に倣った作風は、「定朝様じょうちょうよう」と呼ばれ、当時の日本全国に長きに渡って影響を与えることになります。

 また、定朝作の平等院像は、寄木造よせぎづくりの技法が用いられています。寄木造は、頭・体幹部を同等の価値を持つ複数の材を計画的・規則的に寄せて構成する技法です。これは、定朝の考案ではないですが、彼が寄木造の完成者と目されています。

平安時代後期

 定朝の次代は、子息の覚助と弟子の長勢に分立したと考えられ、そこから後に「円派」、「印派」、「慶派」と呼ばれる系統に分かれていきました。これらの系統は、院や天皇のほか、皇室関係者、摂関家をはじめとする上級貴族、有力寺社などの主要な権門の関わる造像を独占的に担うことになります。この中の慶派から、運慶が誕生するのです。

運慶作とはどういうことなのか?

 仏像を作った人というと、一般にはノミを振るって刻む人をイメージするのではないでしょうか?しかし、その人が作者とは限らないのです。

 仏像制作における木彫りの技法は、大きく「一本造」と「寄木造」に分かれます。一本造は、像の頭・体幹部を一つの材で作る技法です。一方、寄木造は頭・体幹部を、同等の価値を持つ複数の材を計画的・規則的に寄せて構成する技法です。寄木造の最大のメリットは、もともとばらばらな材を組み立てて仕上げるので、分業がしやすく、作業効率が大きく向上するところです。

 仏像づくりは、大仏師と呼ばれる棟梁の下に、多くの仏師が集い、細かく班を分けて分業するものであり、工房全体で仕事に取り組んでいました。本来なら、仏像の作者は、大仏師(棟梁)になるのですが、運慶のような名の知れた仏師になると、小仏師という立場の時でも、作者とされてしまうケースもあり、学術的には矛盾が生じてしまうこともあります。

 つまり、本来の意味で言うと、運慶が棟梁として作った作品を運慶作とするのが正しいと言えるのです。小仏師として作ったものも運慶作として混在しているので、仏像を見る時にどっちなのか注目してみてもいいかもしれないですね!

鎌倉時代の社会構造と造像及び仏師

 飛鳥時代に日本列島に導入された仏教は、7世紀後半以降、国家権力と一体になって急速に発展しました。その背景には、仏教の力によって国家を護り鎮め、社会の安泰と国家の発展をもたらす「鎮護国家」の思想があります。そのため、古代や中世の社会では、権力者が寺院を建設し、仏像の造像を推進したのです。

 鎌倉時代は鎌倉が政治の中心と思われがちですが、少なくても1221年の承久の乱までは、京都の朝廷と鎌倉幕府の力は拮抗しており、二元的支配の次代だったと言えます。

 そのため、12世紀末から13世紀中葉にかけて行われた奈良の東大寺や興福寺の復興事業に対しては、幕府や朝廷などがこぞって参加したのです。ちなみに、この復興は源平合戦序盤の1180年、興福寺・東大寺の僧兵集団と平氏が合戦し、一夜にして両寺が焼失した事件(南都焼亡)に端を発したものです。

 この復興にあたって、朝廷を中心とした造像に関しては、円派・印派・慶派にバランスよく配分がされていました。一方、幕府中心の造像では、運慶を中心とした慶派が重く用いられていましたが、鎌倉時代中葉以降は、鎌倉に本拠を置くとみられる独自の仏所が成長し、幕府との関係を強めていくことになります。

 これを考えると、鎌倉時代においては、運慶を中心とした慶派だけが特別ではなかったことが分かります。ただし、朝廷関与の造像と幕府関与の造像の双方で中心的な役割を果たしたことは、運慶の経歴において最も評価される点だとされています。

鎌倉新様式と運慶作品

 鎌倉時代の彫刻は、平安時代後期に一世紀に渡って全国にくまなく流行した定朝様から大きく変化し、鎌倉新様式と呼ばれる新しい表現が登場しました。この新しい表現は、「写実的」と評されることがよくあります。

 ここで、「写実主義」とはどういう意味か解説します。
 「客観をあるがまま、すなわち主観の側からするなんらかのはたらきかけをすべて抑制して、対象の個性的特徴を直接かつ正確に再現する態度」となります。

 運慶の作品は写実の典型とされてきました。現実性、現実らしさ、実在感などを満たしていて、そこに生きているような迫真性、存在感が溢れているからです。しかし、そもそも神仏や遠い過去の人物などは、本物を見ることができないので、真の意味での写実は不可能です。

 また、運慶の作品はデフォルメされています。しばしば現実ではあり得ないほどの筋肉の盛り上がり、体の厚みにより表現されています。つまり、「写実主義」とは反対の意味である「理想主義」的な要素も少なからず含まれているのです。

 そういう意味で、鎌倉新様式の特徴=写実=運慶のように扱われてきましたが、そうとも言えないという結論になります。時代を代表する運慶の作品は写実的とは言えません。ただし、先ほど述べたように、迫真性や実在感が運慶作品の特徴であり、そうした表現において、運慶は鎌倉時代で抜きんでた仏師であったと言えます。

まとめ

 いかがでしたでしょうか!?

 運慶が登場するまでの造像の流れや鎌倉時代の時代背景、仏像の作り方など、様々な角度がから運慶作品に迫ってみました。これを知ることで、より違った目線で、運慶作品をはじめとした仏像を鑑賞することができるようになりそうですね♪

 みなさんにも、是非観光などで寺社巡りをする際に仏像にも注目していただければと思います♪

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