法隆寺を出て、中宮寺に寄り、法輪寺へと向かっていく。
中宮寺から法輪寺まで歩いて14分程かかる。法隆寺の境内をじっくり歩いてきたので、体力的にはきつくなっている。しかし、のどかな道を歩いて行くので、少しいい気分でもある。始めてきた奈良の雰囲気を味わいながら進んでいくのも悪くない。
そうこうしているうちに、法輪寺に到着した。
法輪寺とは?
法輪寺の創建は、飛鳥時代に遡る。聖徳太子の子である山背大兄王が太子の病気平癒を願って、建立したと伝わる。
境内は法隆寺式伽藍であり、三重塔と金堂が並んでいる。創建当時は、法隆寺西伽藍の3分の2ほどの広さもあったとされる。
また、平安仏を多く保管していることから、平安時代においては寺勢が盛んであったと考えられる。江戸時代初期には、境内に三重塔を残すのみとなるまで衰退するが、その後再興が進められ、現在に至る。
せっかくなので、この寺を建立したとされる山背大兄王について、簡単に解説する。
聖徳太子と蘇我馬子の娘・刀自古郎女との間に生まれる。
聖徳太子と推古天皇の没後、有力な王族である山背大兄王は皇位継承の政争に巻き込まれてしまう。皇極2年(643)、蘇我入鹿らの送った軍兵の襲撃を受け、宮殿を焼かれて生駒山に逃れる。
家臣より再起の戦を進言された大兄王は、「我が身のために万民を疲弊させることは望まない、身を捨てて国を固められるなら、それこそ丈夫ではないか」と断り、斑鳩寺で一族ともに自害したと伝えられている。
なお、丈夫とは「勇気のある強い男」意味である。確かに、なかなかできない決断ではある。仕返しの応酬になるようなことを避けたという点では、被害を最小限に抑えた英断だと言えるのかもしれない。ただ、一族ともに自害するというのは悲しいことである。他の道もなかったのかなぁとも思ったりする。
境内を散策
境内に入るとまず三重塔や金堂が目に入ってくる。
こちらの三重塔は、斑鳩三塔の一つとして親しまれていた。国宝にも指定されていたのだが、昭和19年(1944)、落雷で焼失してしまった。再建を試みるも、全焼のため国宝指定は解除となる。やはり、三重塔は背が高いから雷が落ちやすいのだろうか…法輪寺に関わる方々には無念であったに違いない。
三重塔と金堂の間を抜けていくと、正面に講堂がある。ここには、重要文化財に指定されている仏像などが安置されている。
特に、鞍作止利が造ったとされる薬師如来坐像(重文・飛鳥時代)は必見である。面長な顔、直線的平面的な体つきなど、止利式であることが分かる。止利の作品を間近で見れるのは貴重な体験である。
また、虚空蔵菩薩立像(飛鳥時代)、十一面観音菩薩立像(平安時代)など、とにかく歴史的・文化的に価値の高い仏像が多い。時代ごとの顔立ちなどの違いを見比べても面白い♪
写真は禁止だったので、気になる方は、法輪寺のHPをご覧いただきたい。
仏像 – 法輪寺公式 – 奈良 斑鳩 法輪寺
まとめ
法輪寺も聖徳太子にまつわるお寺であった。その子である山背大兄王の生きざまも学ぶことができ、彼らが生きた飛鳥時代について、もっと詳しく学びたくなってきた。
止利の作った仏像にも感動して、気持ちが高まってきたところで、その日に回る最後のお寺である法起寺に向けて歩き始めることにした。次はどんな発見があるのだろうか?
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