興福寺の散策を満喫した後、東大寺へと向かう。やはり、奈良といったら東大寺の大仏ということで、観光客が多くて混雑している。海外から来ている方もたくさんいるようだ。これまで何度も言っているが、混雑が嫌いな私にはマイナスポイントではある。
しかし、なんだかんだ言っても、私も奈良の大仏をこの目で見てみたかった。「どれくらいの大きさ何だろう?」、「実際に近くで見たら迫力があるのかな?」などの想いが巡る。
もちろん、東大寺の魅力は大仏だけではないので、そこらへんも含めてご紹介していきたい。


東大寺とは?

東大寺は、華厳宗の大本山であり、世界遺産に登録されている。
神亀5年(728)に聖武天皇が建立した金鍾山寺を始まりとし、天平13年(741)国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられた際に、大和金光明寺となった。天平勝宝4年(752)の大仏開眼後に伽藍が整備され、平城京の東にある大寺というので、東大寺と呼ばれるようになった。
治承4年(1180)の南都焼き討ちや永禄10(1567)の兵火で一時衰退するが、江戸時代に大仏と大仏殿が再興され、現在に至る。
境内を散策
東大寺の境内は広いので、ポイントを絞ってご紹介していく。
南大門(鎌倉時代・国宝)

東大寺の正門である。天平創建時の門は平安時代に大風で倒れた。現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人が、新たに宋様式を採り入れた大仏様によって再建したもので、今はない鎌倉再建の大仏殿の威容を偲ばせる貴重な遺構である。正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する金剛力士(仁王)像とともに竣工した。
門を通る際には、巨大な金剛力士像を見ることができる。


こちらは、鎌倉時代初頭の建仁3年(1203)に運慶や快慶ら仏師たちによってわずか69日間で造像された巨大像である。像高はいずれも8.4m弱ある。やはり、天才仏師である運慶・快慶らが造った像だけあって、迫力がすごい!!まさに、当時を代表する天才たちが、阿吽の呼吸で造ったのだろう。
なお、平重衡による治承4年(1180)の南都焼き打ちのあと、重源上人が朝廷や源頼朝らの協力を得て東大寺を再建したが、南大門はこの復興事業のほぼ最後に当たる建物で、金剛力士像はこの門に納めるために、重源上人がとくに念願して造らせたものであると伝わる。
大仏殿

大仏殿は、東大寺の金堂である。奈良時代に創建されてから治承と永禄の二度の兵火に遭い、現在の建物は江戸時代に公慶上人によって再建された。大仏殿を間近で見ると、かなり大きいように見えるが、創建当時よりは規模が小さくなったようである。それでも高さや奥行は創建時のままで、世界最大級の木造建造物である。
大仏殿の中に入ると、奈良の大仏を見ることができる。あまりの大きさに驚かざる得ない。

ここで、大仏について少し解説する。
大仏は、正しくは盧舎那仏もしくは毘盧遮那仏と言い、その意味は、知慧と慈悲の光明を遍く照し出されている仏ということである。
インドのカピラ城に生まれた釈尊は29歳のときに出家し、以後6年間難行苦行を重ね、ついに尼連禅河のほとりの菩提樹下で大いなる宗教体験を得た。『大方広仏華厳経』は時間と空間を超えた仏となったその瞬間の釈尊の姿を描いたお経で、偉大で、正しく、広大なほとけの世界を、菩薩のさまざまな実践の華によって飾ることを説いている。
このお経によれば、鳥の声、花の色、水の流れ、雲の姿すべてが生きとし生けるものを救おうとされるビルシャナ仏の説法なのである。大仏尊像の台座の周りの蓮弁には「蓮華蔵世界」と呼ばれている毛彫図が刻まれているが、これはそうした『華厳経』の説く「悟りの世界」を絵に表わしたもので、われわれ一人ひとりの存在ばかりでなく、あらゆるものが無限のつながりと広がりをもち、これらすべてのものが、ビルシャナ仏の光明に包まれているという考えを美しく表現している。
せっかくなので、様々な角度の写真を掲載する。やはり奈良の大仏のスケールの大きさはすごい!!大きさで言うなら、鎌倉の大仏を圧倒している。


なお、大仏殿の内部は、大仏を中心に一周ぐるりと回れるようになっている。仏像以外にも見どころが多くあったので、写真を掲載しておく。




鐘楼(鎌倉時代・国宝)

こちらの鐘楼は、鎌倉時代の東大寺復興に大きな足跡を残した重源上人を継ぎ、大勧進となった栄西禅師が承元年間(1207~11)に再建したもので、大仏様にやや禅宗様的要素を加味した豪放な建物である。重さ26.3tもある梵鐘(国宝)は東大寺創建当初のもので、鐘声の振幅は非常に長く、「奈良太郎」と愛称され、日本三名鐘のひとつに数えられている。

東大寺創建当初の鐘が残っているのはすごい!!とてもよくできているので、様々な角度から写真を撮ってみた。


二月堂(江戸時代・国宝)

二月堂の名は、このお堂で修二会が旧暦の2月に行なわれることから起こっている。良弁僧正の高弟実忠の草創と伝えるが、寛文7年(1667)の修二会中に堂内から出火、焼失し、現在の建物はその2年後に再建された。
個人的には、二月堂の飾り(?)が、レトロな感じでおしゃれだったので注目した。


さらに、二月堂の特徴として、景色の良さが挙げられる。少し建物が高いところにあるので、境内や奈良の街を見下ろすことができる。しばらく、ぼーっと景色を楽しむことができた。皆さんにもおすすめのスポットである。

法華堂(三月堂)

『東大寺要録』によると、天平5年から天平19年まで(733〜747)の創建と考えられている東大寺最古の建物である。不空羂索観音を本尊とするところから古くは羂索堂と呼ばれていたが、毎年3月に法華会が行なわれたことから、のちに法華堂と呼ばれるようになった。後方(左側・北側)の正堂と前方(右側・南側)の礼堂と二つの部分からなっており、当初は双堂形式の建物であったが、現在の礼堂部分は正治元年(1199)に重源上人によって新造されたものである。
法華堂の堂内には本尊の不空羂索観音像を中心に合計10体(国宝、奈良時代)の仏像がところ狭しと立ち並んでいる。そして、部屋の中は薄暗く、神秘的な雰囲気に満ちている。
具体的には、堂々たる体軀で、悩める人々をどこまでも救いに赴こうとしている不空羂索観音像、髪を逆立て、忿怒の相もすさまじい金剛力士像、それぞれにほとけの世界を守ろうと多様な表情でたたずむ四天王像など、天平彫刻の傑作が集結している。
私はそれらの素晴らしい仏像をしばらくじっくりと見ていたが、ずっとそこにいる訳にもいかないので、出発することにした。法華堂では、物質的ではなく、精神的に何か大きな存在を目の当たりにしたような不思議な感覚に浸ることができた。
まとめ
この日は、興福寺から始まり、東大寺の広い境内を回ることができた。
東大寺では、南大門の金剛力士像や大仏などの迫力、スケールの大きさに圧倒された。やはり、いつも散策している鎌倉のお寺と比較すると、規模の大きさや豪華さを感じる。
歴史的には、奈良を中心とした既存仏教が権力と結びつき、腐敗していることへの批判が高まる中で、鎌倉新仏教が出てきたということもある。そこら辺が現代においても、引き継がれているのであろうか。
ただ、どちらも日本の歴史を感じる上では貴重な存在である。それに対して優劣をつける必要もない。それぞれの次代やこれまでの経緯を感じられればいいのではないか。
さて、東大寺の法華堂を出て、南の方に真っすぐ進んでいくと春日大社に行くことができる。そう、まだ今日の散策は終わっていない。少し疲れも見え始めてきたが、次の目的地へと進むことにした。

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