日本仏教に大きな影響を与えた法然とは!?

 みなさんは、鎌倉仏教の宗派の一つである浄土宗の開祖「法然」という人物をご存じでしょうか?

 という私も、鎌倉を中心に歴史散歩を始めて、鎌倉仏教を学んでから認識するようになりました。現在は2024年6月初旬ですが、6月9日まで東京国立博物館にて、特別展『法然と極楽浄土』が開かれているので、とても気になっています。あまり知識もなく行くのももったいないなぁと思うので、岩田文昭さんが書かれた『浄土思想 釈尊から法然、現代へ』を読んで、法然についてまとめてみることにしました。

 ちなみに、平日に休みを取って特別展を見に行きたいのですが、仕事が忙しくピンチです…休日は小学生の子供の相手をすることになっているし…

 少し脱線しましたが、今回は法然についてご説明していきます。ただ、法然を知るには、法然に至るまでの浄土思想の流れや最も法然に影響を与えた「善導」という人物も知る必要があります。そのため、先にそれらを学んでから法然の話に入るという形式で進めていきます。

浄土思想とは?

そもそも浄土思想とは?

 清らかな仏の国土である浄土に往生し、そこにおいてさとりをえて仏になるという思想です。浄土思想の元となる浄土教は、中国から日本に伝わり、現在の日本仏教界では多数派となっていきます。
 日本の浄土教で特に尊重されてきた阿弥陀仏に関する経典は、法然が浄土三部経と名付けた漢訳の『無量寿経』、『阿弥陀経』、『観無量寿経』です。

中国の浄土思想について

 日本には、中国から浄土思想が伝えられました。その中でも、曇鸞どんらん道綽どうしゃく善導ぜんどうの流れが、法然をはじめ日本の浄土思想に決定的な影響を与えました。特に法然は善導の影響を大いに受けています。善導は『観無量寿経』を中心に浄土教を展開させたため、法然を知る上で「善導」及び「観無量寿経」はキーワードとなります。

 善導については後ほど語るとして、『観無量寿経』はどんな内容なのでしょうか?

観無量寿経とは

 「王舎城の悲劇」と呼ばれる事件を背景にしています。マガダ国の首都 王舎城で王位簒奪をはかった阿闍世あじゃせが起こした事件です。阿闍世あじゃせは、父である国王 頻婆娑羅ひんばしゃら王を幽閉して餓死させようとし、さらに王のもとにひそかに食べ物を運んできた王妃 韋提希いだいけをも捕らえました。観無量寿経では、捕らえられた韋提希いだいけに釈尊が説教する内容が中心となっています。

 釈尊は16の段階を追って阿弥陀仏の姿を思い描く方法を教示しています。ただし、16のうち初めの13観と最後の3観はやや性格が異なります。初めの13観は阿弥陀仏とその浄土を観察の対象としており、終わりの3観ではその浄土に往生する人の様子が述べられています。そして、阿弥陀仏の名をたもつこと、すなわち念仏せよと釈尊が勧めることで話が終わります。

 結論としては、善導以外の諸師は、観無量寿経の要点を「観仏三昧」としましたが、善導は苦悩の衆生を救済するという本願の論理に基づき、「念仏三昧」としたのです。つまりは、阿弥陀仏等の姿を思い描くことに集中すべきなのか、「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えることに集中すべきなのかということです。普通に観無量寿経を読むと前者になるのですが、その解釈を善導がひっくり返したわけです。そして、この善導の考えが、日本の浄土教に大きな影響を与えたのです。

善導について

善導の生涯

 善導の生涯に関しては、多くの伝承があります。歴史的事実と確証できるものもありますが、不明な点も多く残っている人物です。法然をはじめとした日本の浄土教信者は、歴史的事実とは言えない、物語られた伝承を真実であると受け取ってきました。

 善導の生誕年は、中国 隋の時代である613年、没年は唐の時代である681年です。若くして出家して、現在の山西省太原郊外にある玄中寺げんちゅうじにいる道綽どうしゃくを訪ね、浄土思想を教わりました。そして、善導が33歳のとき、道綽はなく亡くなりました。この頃、善導は唐の首都長安に赴き、浄土教の強化活動を行い、その名は次第に知られるようになっていきました。

 また、善導は龍門の大毘盧遮那仏だいびるしゃなぶつ造営の検校けんぎょう僧に任命されました。検校僧とは、仏像の様式・図案を決定し、造営を監督する役です。これは皇帝の高宗とその皇后則天武后の発願・刺命による国家事業であることから、善導の地位の高さが伺えます。

浄土思想家としての善導

 浄土思想家として、善導のよりの貢献は「称名念仏」を称揚し、この意味での「念仏」を広く伝えたことです。もともと「念仏」の意味は、心を集中させて仏を憶念することでした。観察あるいは観法という瞑想方法もこの意味での念仏の1つです。
 なお、口で「南無阿弥陀仏」を称えることが念仏だと日本で考えられるようになったのは、善導の影響によるところが大きいと言えます。

 また、阿弥陀仏と浄土の理解の仕方にも善導の浄土思想の特色があります。
 日本の浄土思想で一般的になった浄土観は、善導の指方立相しほうりっそうの論によるところが大きいと考えられます。指方立相しほうりっそう」とは、浄土が西方の方角にあることを指し示し、具体的な様相を持って成立していることをいいます。
 これは、当時の中国仏教界で一般的だった浄土観に反するものです。観無量寿経で説かれた浄土は、無形的・唯心的な世界とみなすことが一般的でした。西方はるか遠くに極楽浄土があると説くのは、愚かな民衆の心を1つにつなげるための、一時的な方便に過ぎないとされていたのです。

 しかし、煩悩に覆われた凡夫にとって、形を立てて、観想することは容易ではないです。ましてや、形を離れて観想することはできない。仏はこのことをよく承知しているので、あえて西方という方角を指示し、形のある姿を示したのだと善導は考えました。善導の思想には、理性や知性のみで生きることができない、有限な身体をもった具体的な人間の救済哲学があるといえます。

法然について

法然の生涯

 1133年美作国久米南条みまさかのくにくめなんじょうの稲岡荘(現在の岡山県久米郡久米南町)で生まれる。父は久米郡の押領使おうりょうしである漆間時国うるまのときくにで、母は秦氏はたしです。法然は武士の家に生まれたのです。
 そして、法然が9歳のとき、稲岡荘の預所あずかりどころであった明石定明あかしさだあきらの夜襲により時国は非業の死を遂げました。その時、時国から法然へ次のような遺言があったと言い伝えられています。

 「決して敵を恨むな。これも前世の報だ。お前が敵を恨めばその怨みは代々に渡っても尽きがたい。はやく出家して私の菩提を弔い、お前自身も解脱せよ」

 法然は母の弟 観覚に引き取られ、そこで僧侶への準備教育を受けました。

 その後、法然は比叡山に登り、15歳のときに出家し、天台座主から受戒して、正式な天台僧となりました。ところが、法然は18歳で遁世しました。遁世とは、明利栄達の世界を離れ、求道の世界に入ることを意味します。当時の比叡山の僧侶世界は家柄が重視され、内部での出世競争も盛んでした。そんな世界に法然は嫌気がさしたのかもしれないですね。

 さらに、1175年の春、43歳のときに法然は回心しました。善導の『観無量寿経疏』を読んで、称名念仏に帰したのです。回心後まもなく法然は、洛西の広谷の遊蓮房円照ゆうれんぼうえんしょうの庵室を訪れ、そこに活動拠点を移しました。遊蓮房は観想の念仏ではなく、称名念仏の行者であり、念仏三昧において一定の霊証を得た人物として尊敬を集めていました。広谷の地で、遊蓮房に同信の者として迎えられた法然は、そこで自身の信仰を深めたのだと思われます。1177年に遊蓮房は往生しました。その後、法然は京都東山の吉水に住居を構え、念仏と経典を読む研鑽の日々を過ごしました。

 法然の思想は次第に成熟し、評判を呼ぶようになりました。1186年比叡山山麓の大原で「大原問答」という討論会が開かれました。法然も大原に招かれ、そこで並居る学僧を心服させたと言われています。この問答での評価を契機として、法然の名は広く知られるようになりました。

 このような流れの中で、法然の下に弟子や信者が増え、浄土宗の元となる教団ができました。しかし、規模が拡大するにつれ、既成仏教との摩擦も生じてきました。

三代法難

①元久の法難
 元久元年(1204)10月に、比叡山の僧徒が天台座主 真性しんしょうに専修念仏の停止ちょうじを訴えたことに始まります。法然の弟子たちはもっぱら念仏を進めるあまり、他宗をおろそかにし、放逸をなすものが多いということであったようです。これに対して法然は、「七箇条制誡」を作成し、弟子たちの行動を戒めました。そして、それを守るように190名の弟子に署名をさせることで、事態を収拾していきます。

②建永の法難
 元久2年(1205)10月に、今度は南都の興福寺が朝廷に念仏停止を訴える「興福寺奏状」といわれる訴え状を提出しました。このような緊迫した状況の中で、建永元年(1206)12月に事件が起こります。後鳥羽上皇が熊野詣に行った留守中に、後鳥羽上皇に仕える女房が、法然の弟子である住蓮と安楽の主催する別時念仏に参加し、発心して尼になったという事件です。無断で出家したことに激怒した上皇が住蓮らを処刑し、師である法然らを流刑にしました。

➂嘉禄の法難
 法然が亡くなった後、高山寺の明恵みょうえは、それを批判するために『摧邪輪ざいじゃりん』を著しました。さらに、延暦寺出身の定照じょうしょうも批判する著作を著しました。これに対して、法然の弟子 隆寛りゅうかんが反論し、この論争が契機となって嘉禄の法難が起こりました。
 1227年に延暦寺は改めて、専修念仏の禁止を朝廷に求め、法然の墓所を暴こうとしました。そして、専修念仏の張本人として、隆寛・幸西・空阿の3名が流罪となりました。

 このような法難は、弟子たちの振る舞いによって起こった面はあります。しかしながら、法然の思想そのものに法難を呼び起こすものが内在していたと思われます。次にその内容を見ていきましょう。

選択本願念仏集

 1197年の暮れから98年にかけて、法然は大病をしました。これを知った九条兼実は、その教えをまとめるように要請し、それに応じて作成されたのが『選択本願念仏集』です。

 『選択本願念仏集』の核心にある思想は、その題名の「選択」の主体に関わります。通常の発想では、念仏を選択するのは人間です。機根の劣る人間が難しい修行をして仏になることは困難であるため、易行である念仏を選択し、それを実践するという考えはごく普通の発想だと言えます。

 しかし、法然の発想はそれとは異なります。選択する主体を阿弥陀とするからです。ここには、「選択」についての主体の転回があります。自らの力によって往生・成仏するのではなく、絶対的な仏の力によってそれらがなされるという転回です。

 『選択本願念仏集』は、阿弥陀仏が念仏の一行を選択したことを経典によって示そうとしたものです。このことを目的として、浄土三部経をはじめとする経典の要文が所収されています。

 このように、称名念仏を特別視した法然の主張に対して、伝統的な仏教教団は不快感を覚えました。法然の弟子や信徒の中には、公然と他宗を軽んじる者もいました。また、念仏を信じることで往生できるとして、悪を犯しても構わないと吹聴する者もあらわれました。そのようなことから、法然の教団と伝統的な仏教徒の軋轢が大きくなっていったのです。

まとめ

 浄土思想や法然について簡単にまとめましたが、いかがでしたでしょうか?

 法然は当時の仏教界において革新者なんです。だから、既存の教団から批判を受ける。仏教に限らず世の中ってそんなことの繰り返しですよね。法然がひらいた浄土宗は、何度も法難を受けながらも受け継がれていき、今では主流派となっています。全国各地に浄土宗や浄土真宗のお寺がありますよね。

 ちょっと前まで、私はお寺の宗派とかよく分からなかったです。「禅」だの「念仏」だの全部一括りにしていました。しかし、宗祖や弟子たちの人生や念仏に込められた意味などを学ぶことで新しい発見が出てきます。よく鎌倉を中心に歴史散歩をするのですが、ある程度知識があるかないかで楽しさが違います。何も知らずに有名な寺社に行って写真撮って帰るだけでは分からないことがたくさんあります。

 今回のブログを機会に、もっと法然や浄土思想について学んでみたいと思う方がいましたら幸いです。ではでは

【参考図書】
・『浄土思想 釈尊から法然、現代へ』 岩田文昭 著  中公新書

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