逆境に負けない親鸞の生き方

 みなさんは、浄土真宗の宗祖である「親鸞」ってご存じですか?

 日本史を学んでいる方は知っているかと思いますが、詳しいことになると、あまり知らない方が多いのではないでしょうか?私も、2023年に歴史散歩を始めてから鎌倉仏教も学び始めて、親鸞という人物を認知し始めました…

 浄土真宗をひらいた人というと、いかにも覚りをひらいていて、迷いなどないと思われがちですが、親鸞の人生は挫折や迷いの連続です。比叡山での修行において覚りを諦めたり、弾圧を受けたり、息子との縁を切ったり…壮絶な人生ですね。その中で、悩み苦しんできたんです。そのような姿に、とても人間らしさが伝わってきます。

 現代を生きる我々も様々な挫折や悩み、苦しみがあります。時代を越えて、親鸞に共感できる部分もあると思いますので、最後までお楽しみいただければ幸いです♪

生い立ち(法然との出会いまで)

 親鸞は浄土真宗の宗祖として有名な人で、平安末期から鎌倉時代にかけて、90年程の生涯を送りました。貴族である日野有範の子で、現在の京都市伏見区のあたりで生まれる。貴族と言っても、下級貴族であったため、貴族社会において立身出世は困難な家柄でした。当時の仏教界も、貴族社会になっていたので、家柄が良くないと出世できませんでした。完全に世俗化してますよね。

 9歳の時に出家し、延暦寺に入ったと考えられています。しかし、20年程の修行生活の後、親鸞は比叡山を下山します。なぜかと言うと、どのような行を実践しても自らの力では覚りには至りようがないと感じていたからだと考えられています。
 親鸞と言うと、浄土真宗という新しい宗派をひらいた人なので、常人離れしていると思われがちですが、ここで挫折しているんですね。このままではダメだという強い危機感があったのではないでしょうか。

 比叡山を出て、彼は六角堂へと向かいました。そこに100日間参籠をします。
 95日目の暁、夢に聖徳太子が出てきて、お告げを受けます。親鸞はこのお告げの意味をきちんと説明してくれる師匠を探し求めて、法然と出会います。

 親鸞は、「法然に騙されて地獄に落ちても悔いはない」と言うほど、法然に信頼を寄せていたそうです。
 ちなみに、法然の教えを一言でまとめると、「選択本願念仏」です。 つまりは、念仏を唱えることによってのみ往生できるという教えです。「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えればいいんです。普通の方は、座禅と並んでこの「南無阿弥陀仏」を「仏教」というワードからイメージするのではないでしょうか!?

 法然との運命的な出会いを果たした親鸞でしたが、法然門下が急速に拡大するにつれ、顕密仏教との軋轢はしだいに大きくなっていきました。それがやがて専修念仏の弾圧につながり、法然や親鸞にとって、大きな障害・悩みの種となっていくんです。

戸塚駅の近くにある善了寺。浄土真宗のお寺です。アイキャッチ画像の親鸞はこちらにいます。

建永の法難

 建永の法難の概要は次のとおりです。
 建永元年(1206)、後鳥羽院が熊野詣に行った留守の間に、法然の弟子と後鳥羽の女房との間で「密通」が起きました。その密通に直接関わっていたとされる法然の弟子4名が死刑となり、法然や親鸞など6名が流罪とされてしまいました。

 元々、顕密仏教側は、専修念仏の弾圧を朝廷に求めていましたが、後鳥羽院はそれをはねのけていました。つまりは、法然に配慮していたんですね。しかし、建永の法難をきっかけに、専修念仏の弾圧に動きます。専修念仏の弾圧について、朝廷や幕府によるお墨付きが出たことで、法然やその弟子たちにとっては、非常に厳しい時期を迎えることになります。

越後での流罪生活

 中世は小さな政府の時代なので、流罪人の身柄を在庁官人や御家人に預けて、彼らに監視などをさせていました。親鸞は越後の在庁官人に預けられました。つまり、流罪人の扱いは、預かり人しだいということになります。

 その点、親鸞はどのように扱われていたのでしょうか!?
 おそらく、預かり人は親鸞に好意的であり、ある程度の自由を与えていたのではないかと考えられます。なぜかと言うと、親鸞は流罪先で、専修念仏の弾圧に抗議する奏状を朝廷に提出しています。また、親鸞は恵信尼という在庁官人の娘と結婚をしています。
 このことから考えると、預かり人は親鸞に対して、厳しい扱いをしていたとは考えられません。

 なお、親鸞は流罪となる前に、ある女性と結婚していたと思われます。そして、二人の間には後ほど大きな問題を起こしてしまう「善鸞」が生まれます。当時は、流罪先に妻子などを連れて行かないのが普通なので、親鸞は妻子に別れを告げて、越後へと向かったと考えられます。ちなみに、流罪が解かれた後も、親鸞はすぐには京都に帰らずに、関東で布教を続けるのでした。

東国での伝導

 親鸞は、越後への流罪や度重なる弾圧を経験しましたが、それに屈することはありませんでした。そんなに強い心を持った親鸞も、東国での体験によって、信心を揺さぶられることになります。

 一つ目は、佐貫での体験です。1214年頃と考えられますが、全国で干ばつ被害が出たようです。当時は、雨乞いのために大般若経や孔雀経を読み、祈りを捧げたりしていました。
 親鸞は「念仏だけを唱える」という自分の思想信条に反してでも、民衆からの要請を受け、彼らのために浄土三部経の読誦をしました。しかし、親鸞は「やはりこれは間違っている」と思い直し、読誦を中断して、佐貫の地を去りました。

 もう一つは、寛喜の大飢饉です。日本中世で飢饉は珍しいものではありませんでしたが、その中でも大規模なものでした。この飢饉はものすごくて、今でいう7月下旬に大雪が降ったり、8月・9月には台風雨と洪水があることなどにより、農作物に甚大な被害が出ました。京都や鎌倉でも餓死者があふれ、道が歩けないほどになります。
 このような状況の中で、親鸞はあらゆることをやったと考えられています。しかし、どうにもできない。その中で、悩み、葛藤した結果出した答えは、「民衆に寄り添って、一緒に念仏を唱える」ことだったのです。もちろん、念仏では飢饉で苦しむ人たちを救えない。だけど、他のことをやっても救えるものでもない。そういう圧倒的な無力さを痛感したことは、親鸞の思想に大きな影響を与えたと言えます。

善鸞の義絶

 親鸞は、寛喜の大飢饉が落ち着いた頃に帰洛します。東国での布教にある程度の達成感があったことや恵信尼との子供たちが大きくなったのも、その理由と考えられています。
 また、前妻との子である善鸞と再会します。流罪があったとはいえ、その後の東国での伝導を含めると30年程も善鸞を放置していたことになります。もはや、「他人」レベルですね。親らしいことは何もできていなかったため、親鸞も負い目を感じていたのではないでしょうか。

 一方、親鸞が帰洛してから10年程経ち、東国教団は大きく揺れ動いていました。東国門弟の間で、念仏に関する論争などが浮上したのです。そこで、親鸞は、子の善鸞を東国に派遣します。しかし、これが大失敗に終わることになります。善鸞は親鸞の教えを歪めてしまい、ありもしないことを述べたり、対立する直弟子を幕府に訴えるなど、より混乱を深めることになってしまったのです。鎌倉では、親鸞の弟子と善鸞が裁判沙汰になり、親鸞もどちらかを選ばなくてはいけなくなりました。結果として、親鸞は善鸞を義絶する道を選んだのです。

 個人的には、善鸞にもかわいそうなところがあると考えています。実力以上の任務を負わされてしまったのではないでしょうか。善鸞は長らく親鸞と別々に生活しており、親鸞の教えを十分に理解できていなかった可能性があります。逆に、東国の門弟たちの方が、親鸞の教えを良く理解していたのではないかと思います。その中で、混乱を収拾するには、相当な実力が必要です。そういう意味では、親鸞の判断ミスが生んだ悲劇だったとも言えます。

親鸞の教えとは?

 親鸞の教えと言えば、煩悩の多い人間(悪人)こそが、阿弥陀仏の救いの対象であるという「悪人正機説」と考えている方も多いのではないでしょうか?

 実際に、山川の教科書などには、そのように書かれています。しかし、これは法然や親鸞が乗り越えようとした伝統的な浄土教の教えなのです。そうなってしまった原因としては、親鸞の曾孫である覚如にあります。彼が、南北朝時代という新しい時代に合わせて、親鸞の教えを修正(悪く言えば歪曲)してしまったんです。

 顕密仏教は、次のように考えていました。「善い人」は自力で悟りをひらくので、阿弥陀仏は彼らの面倒を見る必要はない。でも、「悪い人」は能力的に劣っているので、阿弥陀仏に救ってもらうしかない。だから、阿弥陀仏は「悪い人」を救済の対象とする。まさに、悪人正機説の考え方ですね。ただ、この考え方は、一般の民衆を悪人と蔑視することにつながるものでした。

 一方法然は、浄土教は全ての人のものであって、悪人だけを対象としたものではないとしました。全ての人を同じように無智だとしたのです。そして、「称名念仏」を悪人・凡愚のためのものから、唯一の往生行に高めたのです。

戸塚にある清源院。浄土宗のお寺です。

 親鸞もこの考えを引き継ぎます。彼は末法の世を生きる自分たちは、すべて平等に「悪人」だと考えたのです。人間の中の善いも悪いも、どんぐりの背比べみたいなものだということですね。そして、親鸞は、弥陀への信心が本当の極楽に往生できる「正因」だとしています。その点については、念仏を唯一の往生行とする法然とは違いますね。親鸞の言う信心には、機の深信(悪人であることの自覚)と法の深信(弥陀の救済を信じること)から成っており、機の深信が特に重要だとされています。自分の愚かさを自覚するという点については、古代ギリシャの哲学者ソクラテスの「無知の知」とちょっと似ているのかなと感じました。

 また、親鸞の晩年は全てに否定的な方向に向かっていきます。自分や弟子たちに対しても厳しい考えを持ちます。親鸞の思想は最終的に破綻してしまったとの意見も出ていますが、私もそのように感じました。自らの弟子や子である善鸞を傷つけてしまったショックからなのか、歳のせいなのか、はたまた別の理由があるのかは分からないです。興味がある方はいろいろ調べてみてください。

まとめ

 いかがでしたでしょうか?なかなか波乱万丈な人生ですよね!

 人間は生きていく中で多くの不条理を経験します。親鸞の場合であれば、朝廷・幕府・顕密仏教などからの弾圧や飢饉で多くの人が倒れていくことなど、悪いことをしている訳ではないのに、大きな苦しみを味わいます。そして、努力してもどうにもならない。大きな時代の流れを前にしたとき、私たちは無力なんですよね。その中で、どう生きていくべきなのかということを考えさせられました。

 親鸞は、困難にも屈することなく向かっていきました。悩みながら、迷いながらも前に進んでいく。そして、自分のやるべきことに専念する。そうすることで、自らの思想を発展させていったんですね。

 今を生きる私たちにも、多くの困難があります。その時に、親鸞の生き方と言うのも参考になるのではないでしょうか。

【参考図書】
・歴史のなかに見る 親鸞  (平雅行 著、法蔵館文庫)

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